金継ぎは、一つの修復技法です。
完成された器は、とても味わい深いものに仕上がります。しかし、その魅力は見た目の美しさだけではありません。
「物を大切にしたい心」「壊れたものを、新しい芸術品へと生まれ変わらせる」という精神こそが、人々を惹きつけるともいえます。
「金継ぎにみる詫び寂びの精神」とはいったい、どういうものなのでしょうか。
金継ぎの魅力「物を大事にする心」
「壊れたものを、金で繕う」という言葉だけでは、金継ぎのすべてを表現することはできないでしょう。
確かに一つの伝統技法であり一つのアートでもありますが、金継ぎでは、「ものを大事にする精神」がそのまま作品に現れているように思います。
壊れても、傷が入ったとしても、その傷を完全に無かったもののようにする手法ではありません。むしろその傷があるからこそ、それを生かしてより美しいものに仕上がります。もちろん、買い替えることと比べるとそれには手間も時間もかかります。金繕いをしたからといって、その器が新品同様になるわけでもありません。
しかし、それでも「金で繕うことを選択する」という精神は、「それだけ手間ひまをかけてもいいくらい、その器に思い入れがある」ということでもあり、金継ぎという行為自体が、その想いを表現しているといっても過言ではありません。
なぜ、Kintsugiは海外でも人気があるのか
金継ぎは「Kintsugi」として海外でも親しまれています。
しかし、「古く、壊れたものは価値がなくなる」という欧米の認識があるのも事実です。「侘び寂び」という日本人特有の感覚がなかなか理解されにくい部分もあるでしょう。
そんななかで、なぜ「壊れたものは修復して大切にする」金継ぎという技術が、世界に広まっていったのでしょうか。その理由は、見た目の美しさだけではないでしょう。
「大切な器」が壊れたとき、自分の一部が壊れたように感じる人間は、自分が持っているものに「愛着」を持ちます。そこに、なんらかのストーリーが乗っていると、さらにその愛着は増すでしょう。
たとえば、
・幼少期からずっと一緒にいる大切な友人から譲り受けた食器
・夫婦で初めて行った旅行で、記念に買ってずっと使っている湯呑
とか、そういうものは別の皿とは違った「特別な品」です。
それはモノとして大切にするというよりも、まるで自分の一部、自分の人生の一部のように感じます。
これを拡張自我といいます。
自分でないものを、自分のように大切に感じる精神のことです。
自分のお気に入りの器をうっかり落として割ってしまったとき・・・一瞬、呆然とするかもしれません。
そしてそのあとに、「ものすごくお気に入りの食器だったのに」「あの時の記念の品だったのに」とショックを受けるでしょう。
それは、日本人であろうとそうでなかろうと、同じはずです。唯一無二の品であるから、「割れたからおしまい」とはどうしても思えない。そういうとき、「金で繕い、新しいものに生まれ変わらせる」という行いは、別の形で昇華させる手段でもあります。
その品が大切なものであると同時に、「繕う手間をかけても、その品が大事である」という想いを乗せて生まれ変わるからです。
割れたからこそ、金継ぎという手段でその想いを付加する。
そして新しい、自分だけの器が出来上がる。
そうやって、金継ぎの精神は「Kintsugi」としてこれからも世界に浸透していくのは何ら不思議なことではありません。金で繕われた器の数だけ、人々の想いが乗っているということですね。
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